金城キク
Kiku Kinjyo
Kiku Kinjyo
(1909年~1966年)
戦後、沖縄女性企業経営者の先駆けとして奮闘する傍ら、教育・社会福祉事業に
生涯を捧げる。「徳を残して、財を残さず」の報恩の精神を貫いた。
生涯を捧げる。「徳を残して、財を残さず」の報恩の精神を貫いた。
企業経営の傍ら社会福祉事業に尽力、
- ・昭和35年(1960年)
- 財団法人「金城報恩会」設立。
- ・昭和37年(1962年)
- 那覇市寄宮に「みやぎばる保育園」開設。
- ・昭和38年(1963年)
- 那覇市若狭に「わかさ保育園」開設。
- ・昭和39年(1964年)
- 東京都渋谷区に沖縄女子学生のための「和敬寮」を開設。
- ・昭和41年(1966年)
- 琉球大学へ沖縄独自の自然と文化資料館「風樹館」を寄贈。
- ・昭和49年(1974年)
- 遺言によって老人ホーム「おなが園」が開設された。
- ・救らい施設「愛楽園」、沖縄産業開発青年隊、沖縄少年会館、沖縄キリスト教短大、
- 精和病院等への多額の寄付、建設資材の寄進。
- ・その他、県内福祉施設、教育施設の設立、運営に尽力。
受賞歴
- ・昭和39年(1964年)
- 沖縄社会福祉会より「行政主席賞」受賞
- ・昭和40年(1965年)
- 沖縄タイムス社より「社会奉仕賞」受賞
生い立ち
小禄村(現那覇市)で生まれる。1925年(大正14)沖縄県立第一高女を卒業、同年東京の実践女子大学国文科入学、28年那覇市旭町で建材商を営んでいた父三郎が死亡、母トシもその2年前に亡くなっていたため、大学を中退して家業を継ぐ。
戦時中は大分県に疎開、48年帰郷して那覇市神里原で建材店を再開。戦前からの実績もあって本土セメントメーカーと代理店契約を結び、50年には〈金城キク商会〉を設立、資本金6100万円の中堅企業に発展させた。
企業経営のかたわら社会福祉事業に尽力、60年〈金城報恩会〉、62年〈みやぎはら保育園〉、63年〈わかさ保育園〉、64年東京代々木の沖英寮を買い取り、沖縄女子学生のための和敬寮を開設。さらに66年琉球大学に風樹館を寄贈し、74年には、遺言によって軽費老人ホームおなが園が開設された。社会福祉に貢献した功績で行政主席賞、沖縄タイムス賞受賞。
戦時中は大分県に疎開、48年帰郷して那覇市神里原で建材店を再開。戦前からの実績もあって本土セメントメーカーと代理店契約を結び、50年には〈金城キク商会〉を設立、資本金6100万円の中堅企業に発展させた。
企業経営のかたわら社会福祉事業に尽力、60年〈金城報恩会〉、62年〈みやぎはら保育園〉、63年〈わかさ保育園〉、64年東京代々木の沖英寮を買い取り、沖縄女子学生のための和敬寮を開設。さらに66年琉球大学に風樹館を寄贈し、74年には、遺言によって軽費老人ホームおなが園が開設された。社会福祉に貢献した功績で行政主席賞、沖縄タイムス賞受賞。
※「金城キク女史を語る」沖縄社会福祉協議会会長 具志堅 宗精
「女史はその高潔なる人格と相俟っておのれを律するに厳しく、派手を好まず、私生活はあくまで質素でつつましくこれまでの社会福祉のために投げ出した寄付金や奉仕活動については一切表面に出さず、新聞等に報道されることを好まない地味な人、誠意の人でありました。其れがため女史の隠れた美挙は逝去してのち其の大半が関係者によって発表されました。」
昭和41年4月没後 新聞寄稿より- (株)金城キク商会
- 球陽生コンクリート(株)
- (株)金城キク建設
- (株)金城キク運輸
- (株)太陽システム沖縄
- 山陽砕石(株)
- (株)カイコン
- 北陽生コンクリート(株)
- 球陽興産(株)
- (株)比屋根建材販売
- (株)金城キク インターナショナル